まあ書きにくいが。。。抱朴子。Wikiなどもみてみてください。万葉集にも引用があるそうです。
序です。
「わたくし葛洪(かっこう)は、生まれつきとびぬけた才があるわけでもない上に、たまたま「老子」のいわゆる無為の道が好きだった。だから、」
「そこで私は出世の道には望みを絶ち、貧窮の境涯に甘んじることにした。あかぎ・豆の葉の汁にも八珍の味があり、よもぎの戸・いばらの門にも数奇をこらした美邸の安楽がある。それで権力者の家には、目と鼻の先でも行かない。道を知る士のところには、いくら遠くても必ず訪れる。」
「今までに読んだ珍しい書物、その数は少なくない。大抵隠語が多くて俄には理解しにくい。」
「今、この書物を著して、あらあら不老長生の筋道を示す。最も微妙なところは筆紙には述べられない。ざっと概略だけを述べ、一端を示したつもりである。」
「後世の不良長生を志すひとにとって、この書物が迷いの雲を晴らす助けになれば幸いである。信じない人に信じてくれと頼むつもりは毛頭ない。
右、謹んで序文とする。」
Wikiによると317年の本の書物です。
。。。。もちろん、ブッダの話を知っている我々には。。という面はあるのかもしれないが、現実「期間限定の常見すなわち少欲知足には」「かなり妥当だろう」ことに。。自分は、
「それで権力者の家には、目と鼻の先でも行かない。道を知る士のところには、いくら遠くても必ず訪れる。」
この生き方が気に入っていた。
お釈迦様の話に「権勢のあるものには近寄らない」という正令があるそれにも逆らうこともない。
と。。かつて。。この本を手にとり、一度捨てて。。また書い直した。
昨今。。すこし得たものもあったので、こちらのブログにすこしだけ書こう。
それはともかくとして。。この話は。。いちおう。。「心の中はどうなってるの」の基本心所(共一切心心所)、悪心所を確認したうえ、すくなくとも善心所の。。信をなにがしかで得てないと。。追い落とされるかもしれない。
そうして、自粛心所の、正語、正業(体のうごき)は確認したうえで。。。
正命、という検討です。長老は「要するに仕事のことです」と言われてる。。生き方ですかね。。
そこに先の「それで権力者の家には、目と鼻の先でも行かない。道を知る士のところには、いくら遠くても必ず訪れる。」をあてて、二重螺旋を整頓しようと内容です。
ところが。。真似はただの慢、同等慢で「欲で失敗する」のであり。。
しかして、自粛心所にとらわれることなく、無量心所を検討すべきだろう。
そして、そのあと、そのとき、ここに語られる「不老長生」もまるで岩山が崩れるように霧散して、消え失せることになるかと思われる。
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